女の子をひっかけるという表現は、猟奇的な彼女とか百舌の早贄とかって感じがして好きだ。冷静に考えてみると「ひっかける」という動詞はなかなか興味深いところがある。女の子をひっかけるかと思えば、小便もひっかけるし服だってひっかけるし足すらもひっかける上、魚どころか酒すらひっかけてしまう。しかし、もっと色んなものをひっかけても許されるのではないか。ドーナッツとか、雲とか、土星の輪とか、好きとか嫌いとか。
スーパーで生姜と大蒜を買って冷蔵庫にぶち込んで床に着く。目覚めてみて冷蔵庫を開けると生姜も大蒜も影も形もない。こいつは変だと思って小一時間考えてみたが、思い当たる節がない。そこでようやく、スーパーで生姜と大蒜を買ったのは夢だったんだと気がつく。そういうことが段々増えてきた。
ベンチに腰掛けて靴紐を結んでいたら、ふと小学生の頃を思い出した。靴紐を蝶々結びにできない友達がいて、その都度俺が結んでいた。何度教えても覚えないもんだから、学校ではいつだって俺が結んでいた。そんな風にして一年が過ぎ、俺はその小学校からいなくなって、彼は靴紐をどうしていたのだろう。ただ靴紐を結ぶというだけで、十年前のことを今更思い出した。十年後に靴紐を結ぶとき、また彼のことを思い出すのだろうか。多分、思い出さないような気がする。十年後どころか一年後、いや一月後だってきっと思い出さない。一秒後、もうそこに俺はいない。
11次元で羽ばたく蝶を掴む、って感じかな、こういうのって。
とにかく長い文章を書いてみようと思ったので、適当に長くしてみた。これはこれで悪くない気もするが、驚かないほど中身がない。
何だかんだで、みんな色々とやってんだなあという一日。何やかんやと、俺もこっそり何かをやってる風を装ってみるのも悪くないよなあとしみじみ。いや、ないな。
俺の人生には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放っておいても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。
二十年ほどそういうものだったが、当然いつまでもそういうものじゃいられないわけで。
何でもかんでも、とはとてもとてもいかないまでも、金星を観測したり大学まで自転車を飛ばしたり、スーパーで生姜と大蒜を買ってみたり、もちろん靴紐を結んだりもする毎日。