言葉が空疎であるよりは、内容が空疎であるほうがまだ良い。
言葉を尽くせば尽くすほど話している内容が曖昧になっていく議論、そういった代物を見ることは少なくない。言葉の数だけ、用いた技術の分だけ、論理は鋭利に、内容は厳密に、なっていって欲しいと僕は思う。無論のこと、曖昧な議論こそが有用な場もたくさんある。たとえば、文学部だとか。
ゆとり世代という言葉が好きだ。何だか馬鹿っぽいし、僕は馬鹿だからぴったりだ。親子丼のように調和しているし、プロクルステスのベッドみたくしっくりくる。そんな風に愚鈍で滑稽な僕にも、一つぐらいは分かることがあると言ってみたい。それはこういうことだ。この世界は賢明なる人々によって健全に運営されている。神様、彼らによろしく。偉大なる先人たちの犯した極々僅かな失敗作の一つとして、僕は歴史を愛している。
これがオチだよ。21年の人生の、64年の戦後の、2600年の日本史の、200万年の人類史の、40億年の地球史の、140億年の宇宙史の。これがオチ。笑っていこう。僕の友達もよくこう言っている。今日はツイてなかっただけさ、トータルでは勝ってる。励みになりませんか?
歴史という書物は肯定文のみで記述されている。