カフカの『城』を読む。これまで自分が読んできた僅かばかりの小説、それは実に数少ないのだが、その中でもこんなに完璧な作品はなかった。というより、小説というのものを初めて読んだような心地がした。小説でこんなことを書いてもいいのかという驚きと共に、なるほどこれこそが小説なのだという確信が得られた。つまり、これまで自分が読んできたこれ以降の作品の幾つかは、全くこれに各々の味を付けることで成立していると感じられたからだ。常々、何故こうも小説は長くなくてはならいのかと疑問を抱いていた。数百枚、或いは数千枚の原稿用紙を使って何をそんなに語ることがあるのか、まるで分からなかった。しかし『城』は完全である。長大でありながら無駄がなく、濃密である。それもこの濃密さとは、喩えばこの作品を半分かそれ以下の分量まで削ぎ落としたとしても、決して増すことはなく、むしろ損なわれるだろう。『城』は未完に終わっている。それも徹底的に未完であり、この先どれだけ物語が続けられるはずだったかとか、どう展開しどう終わるはずだったかとか、そういった推量を微塵も許さない。何故ならば、『城』は所々で多くの終わりを迎えており、また、次の瞬間にはそれを否定することで続いているからだ。そのどこで終わろうと構わない。もしくは、決して始まらない物語だと言ってもいい。故に、『城』は完璧だ。

久々に大仰なことを書いてみた。でもそれだけ『城』には驚かされたし、何よりこうも驚かされたことに驚かされた。去年から自分の中で「街を出る」という話を抱えていて、そいつをどうにかしてやろうとここ数週間躍起になっていたんだけれど、拍子抜けした。上であれだけ言っておいて何だけど、多分、この後Kは村を出ようとして出られなくなるのだと思う。それは城に入ろうとして入れないことと実際にはまるで同じことだ。安部公房の『砂の女』も恐ろしく優れた小説で、これは砂の穴からの脱出を試みる作品だ。でも、やっていることは『城』と変わりない。『城』において会話で表現されていることを寓話的にしているのだと思う。今はまだ少し持ち上げ過ぎている嫌いもあるだろうけど、それでも『城』は重要な読書経験になる気がする。

結局、問題となる、問題とすべきなのは手法なんじゃないか。翻訳は時代に合わせて続けていく必要がある、とかそんな感じのことを言ったのは誰だったか。村上春樹だったような気がするが、確信が持てない。でも、多分そんな感じなんだと思うようになってきた。オアシスは曲も詞も過去のロックからの影響を隠しもせず晒け出しているけれど、音は間違いなくグランジシューゲイザーを通過した後のものだし、だからこそ成り立っているんだろう。表現できる中身はとうの昔、それもここ数百年なんかじゃなく、それこそ千年や二千年以上も前に出尽くしていて、後は表現の手法の問題なんだと、そんな気がしてきた。要は時代に合わせて変化させ続けていく必要があるということで、表現というのはそういう仕事なのかもしれない。「ただ欲望だけが変わらずあり、そこを通り過ぎる名前だけが変わっていった」だったかな。岡崎京子の『ヘルタースケルター』にこんな台詞があったと思う。意味するところはまるで違っているけれど、同じ表現が当てはまると思う。全て机上の空論ではあるにせよ。