数日前に去年基礎教養の担当だった教授とふと会ったので、幾らか話をした。会話は楽しいと思った。会話をしていると、何というか、頭が冴えてくるというか、閃くというか、複雑なパズルを高速で解いているような気分になる。それから今日に至るまで、別の教授が二人、近所のパン屋の店員が一人、ベンツに乗った訪問販売員が二人、それだけの人達と原稿用紙三枚に収まりそうな程度の話をして会話について考えて、今日になって考えるのをやめた。理由はうまく言えないけれど、人と話すことはとても好きです。「人と話す」とは書いてみたが、人以外の何と話すというんだろう。猫とか石とか、或いは炎の神カンティード様とか。何はともあれ、何であれ、語るべき内容が備わっているのは悪くない状態だ。

海辺のカフカ』を読み進める。何で村上春樹を今になって読んだのだろうと考えることがある。もっと早いか、遅くても良かった。『ダンス・ダンス・ダンス』までは良かった。『風の歌を聴け』は嫌いじゃないし、『1973年のピンボール』は好きじゃない。『羊をめぐる冒険』は忌憚なく好きだと言えるし、『ダンス・ダンス・ダンス』もやっぱり好きじゃない。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でおかしくなった。読書とは作者との対話である。誰の言葉だったかな。誰でも言えそうな言葉だ。そういう感じ方をすることはなくもない。だけど大抵の作者はこっちの話なんて聞いちゃくれないし、そもそもこちらから話そうとも思わない。そういうゲームのしきたりをきちんと弁えている。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『海辺のカフカ』はそうじゃない。読みながらこっちは雄弁に語っているし、向こうもそれに応えてくれる。でもそれは互いのトリックを曝き合うような会話じゃない。タネは分かり切っていて、そこに至るまでの綱を張るような会話だ。式を見た瞬間に解は閃いている。普段はそれでお終いだけど、時として過程が必要になってくる。ここでの会話とは、あらゆる表現を尽くしてそこを探る行程だ。そして自分は誰と話しているのだろうと思う。それは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の作者や『海辺のカフカ』の作者であって、決して村上春樹じゃない。誰だか得体の知れないものを相手に、誰とするよりも雄弁に話をしている。こういった作品に対して正直に振る舞うことは難しい。

バイオはとりあえず本編終了。難易度はノーマル、死亡回数は多分10〜20回ぐらい、時間はきっと13〜14時間ぐらい。ムービーの時はあまり画面に集中しないので、アクションムービーの初見で死にまくった。ガラドールと戦ってた頃が一番しんどかった。ずっと緊迫した空気だったから。城を出てからは装備も回復薬も充実していたし、出てくるのを片っ端から撃つだけだったのでなかなか爽快。終始通して、弾がなくてどうしようもないみたいなこともなく、かといって余りまくって余裕過ぎるみたいなこともなく、適度なバランスだったと思う。プロフェッショナルは厳しそうなのでパスの予定。とりあえずはエイダ編にとりかかるか。

ディープ・パープルの『On The Road』を聴く。パープルはスタジオ盤はどうも好きになれないけど、ライブ盤はどれもいい。録音か、或いはそれに類する問題なんだと思う。スタジオ盤は音が軽くて退屈になる。でもライブ盤を聴くとやっぱり曲と演奏は良いのだと分かる。

風邪、風邪、風邪。