なろうなろうあすなろう明日は檜の木になろう。

大学ではキリシタン新約聖書を配っていた。聖書の中では「ルツ記」が好きだ。ミレーの「落穂拾い」を彷彿とさせるところのある、短編小説と呼んでも差し支えようのない話で、聖書にしてはあまり啓示的ではない。異邦人であるルツという女性のなかなか心温まる物語なんだが、オチに驚いた。旧約聖書によくあるように、最後にルツとその子孫が簡単に紹介される。その最後にダビデの名前が出てくる。ダビデ王の出自がこんなに素朴なところにあるとは思わなかった。

神の子どもたちはみな踊る』を読む。地震のイメージが直接的、或いは婉曲的過ぎる印象。「蜂蜜パイ」はこの中では平凡な作品だけど平凡なりに好き。「アイロンのある風景」がいい。「かえるくん、東京を救う」はどうすればいいんだ。

Q.E.D. 証明終了』30巻を読む。内容はいつも通りとして、違和感があったのが各話共にあった見開きのカット。すごく奇妙だ。

マトリックス・リローデッド』を見る。スミスとカーチェイスのためだけに見る価値があると思う。逆に言うとそれ以外はちょっと。

重要なのは何のアニメを見るかではないし、そもそもアニメを見るといった行為自体が表層の問題でしかない。だから誰かがアニメを見始めたり見るの止めたとしても、そのこと自体は何でもない。たとえば明日に地球が突然自転を止めてしまっても火星はそれほど驚きはしないということ。肝心なのは地殻で発生している出来事だ。アーサー王は確かに偉大な人物かもしれない。しかしだからといって、そのことでアーサー王になれなかった人々を悪し様に言う権利などどこにもない。翻って言うなら、現実は穴あきドーナッツ状であって、北は南で南は北、東は西で西は東に過ぎない。つまり超現実主義者が超えようとしたのは外ドーナッツへの壁ではなく、むしろ穴、内ドーナッツへの壁ということになる。これはトポロジーの問題なのだ。だからこそ酒をしこたま飲んでピンクになったゾウに跨らねばならない。