世の中ってのは言葉で語られるほど真剣には回ってないんじゃないかって、そう思うんです。何となく生きたり死んだりしてる。そういうのってすごくいい。
破れた風船みたく自分の中から言葉がどんどん抜けていっている。語彙が減っているという意味じゃなくて、言説への興味を失い続けているという意味で。誰が何を語ってもどうでもいいし、そんなに語りたいこともない。他人の話を聞いているときの自分は、地面に開いた穴と変わりないような気分。そこに人は言葉を投げかけるけれど、だからどうってこともない。耳を塞ぐこともなければ傾けることもない。マカロニの穴のよう。
風邪をひいたり腹を下したりしながら二日続けて椅子で眠ったり殆ど食事を摂らなかったりな毎日。脳が乾いていく。
大学には行ったり行かなかったり行ったり行ったり。哲学科の人達の言葉を聞いていると、形而上の問題は全て言語上の問題へと還元されてしまいそうな気がしてきますね。
魔術的リアリズムって要はラノベ的リアリズムなのでせうか。そもそもリアリズムなる概念を幾らか厳密にする必要があるのかしらん。ここではやはり自然主義の流れなのでせうねえ。森見登美彦をぺらぺらと立ち読みしてみてそんな感じでなははははん。
僕自身はもっと虚構に流れてしまってもいいんじゃないかと思うんですね。登場人物の性格だとか時系列だとか空間だとかもっと適当で辻褄が合わなくたっていい。同じ人間が違う場所に同時に存在してもいい。もちろんそれなりの説得力が必要で問題はそこなのです。説得には色んなやり方がありますが理詰め以外の方法を取るというか理詰めの裏を取るというか。論理というものはそれ自体が論理的に破綻しているのだという点を活かし得るのではないかと。
昨今の文学部という場ではあらゆるテキストは開かれた物として扱われるのですが、僕はできるだけ閉じられた物として扱いたいわけで、事実そうしてきたのですがたまには開いてみてもいいかなって思いました。村上春樹量子力学的に読解したりするんです。何だか笑えてくるでせう。どうして村上春樹の「ぼく」に読者は村上春樹自身を重ねてしまうのにハルヒキョンに読者は谷川流を重ねてしまわないのかということなんです。いい加減、作品に作者を重ねるという批評手法に無理を感じている人は少なくないのではないかと感じます。民主主義は最悪の政治形態であると言える。これまで試されてきたあらゆる他の政治制度を除けば。そんな具合。テキストを閉じられたものして扱う読解は殆ど小学生の読書感想文じみたものになってしまい、そのことが研究という場に何をもたらさないのかについては承知しているつもりなのですけども、開かれたものとして扱っている人達の幾らかは充分に読解をしていないのではないかという不安があります。要は両者の揺り返し、バランスの問題なのです。やろうと思えばサガンアジシオを結びつけてしまうことはそんなに難しいことではありません。