国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れ込んだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、

「駅長さあん、駅長さあん」

明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

川端康成『雪国』

高校生の頃は、文章を書く上で語尾の重なりが怖かった。とにかく同じ語尾が二文に渡って続かないよう、色々と工夫したものだった。語尾が重なると文章の流れがぶつ切りになってしまうと思っていた。勘違いだった。川端康成の文体を模写しているうちに気付かされた。これはこれでリズムを生むのだと。或いは、語尾が単調であろうとも流れが続くことが大切であることを。
でも小手先の技術ってそれはそれで大事だよなあ。もう最近は小手先の技術を意識しなさ過ぎて本当酷い。その自覚はあるんだけど、気楽に気楽に。水の低きに就くが如し。プロの書いた日記とかエッセイとかって普段全く読まないもんだから、こういう文章書くとき手本がなくって困る。いつも困ってる。でも作家の人となりには殆ど興味ないから読む気もしないし、そこまでするほどの意欲もない。それでこんなことになってる。酷い。基本的に読書経験が貧しいので、意識的にやってかないとダメだな。
高校生の頃、小説書いてた時ってひたすら文体をパクることを目指してて、色々やった。かなり露骨にやったつもりが気付かれなかったので、これはこれでありなのかもしれないと思う一方、手前の稚拙さを覚えもした。でも一番熱心にやった泉鏡花の摸倣だけは国語の先生に気付いて貰えた。いい気分だった。