私から私へ。
これは私の物語だ。私が書き、私が読む。そういう物語だ。小説ならば私小説に当たるだろう。伝記ならば自伝に当たるだろう。確かなのは、単なる独り言に過ぎないという事実だけだ。だが、単なる独り言でなかった物語がかつて一つとしてあっただろうか? 私は知らない。よくあることだ。
物語はいつだって単なる独り言だ。それを誰かがふと耳にし、また新しい独り言を生み出す。それを別の誰かがふと耳にし、更に新しい独り言を生み出す。エトセトラ、エトセトラ。
私は書く。私は読む。物語が始まる。
トイレでは、一人の女が泣いていた。一人の女とは、私である。私はとめどなく溢れる涙をこらえようともしていなかった。涙とは、私である。私は夫から離婚を迫られたのだった。夫とは、私である。十七年後、私は大学職員として定年を迎える。大学職員とは、私である。私は一人息子を育て上げていた。一人息子とは、私である。私と私とはステーキを食べに行こうと約束をする。ステーキとは、私である。五ヶ月後、私と私とは誕生祝いと退職祝いを兼ねて私を食べに出かける。そして私と私とは一人の男に殺される。一人の男とは、私である。
食堂では、一人の男が食事を摂っていた。一人の男とは、私である。私は刺身を頬張っていた。刺身とは、私である。私は教授で、次の講義に備えて腹ごしらえをしていた。教授とは、私である。私は酵母菌の観察を専門としていた。酵母菌とは、私である。私は妻に離婚を告げたところだった。妻とは、私である。私は院生と不倫をしていた。院生とは、私である。後に、私と私とは結婚し、離婚し、再び結婚する。子供はできなかった。子供とは、私である。十七年後、私は名誉教授になっている。名誉教授とは、私である。五ヶ月後、私は私と私の研究をするべく大学へ向かう。そして私は一人の男に殺される。一人の男とは、私である。
トラックでは、一人の女が眠っていた。一人の女とは、私である。私は魚を搬入したところだった。魚とは、私である。私はステーキも搬入していた。ステーキとは、私である。エトセトラ、エトセトラ。十七年後、私は事故で両足を失っており、車椅子に乗っている。両足とは、私である。私は酒に酔って運転していたところハンドルを切りすぎて横転し、私を失ったのだった。酒とは、私である。私は酵母菌によって作られる。酵母菌とは、私である。五ヶ月後、私は楽しみにしていた漫画の最終巻を買いに行く。そして私は一人の男に殺される。一人の男とは、私である。
調理場では、一人の男が料理を作っていた。一人の男とは、私である。私は魚を捌き続けていた。魚とは、私である。私は私の頭を切り落としたのだった。頭とは、私である。私は死んだ。よくあることだ。私は刺身となって、出されたところだった。刺身とは、私である。十七年後、私はステーキ店をオープンする。ステーキとは、私である。滑り出しは上々、店は繁盛し、大勢の客で賑わった。大勢の客とは、私である。五ヶ月後、私は店の盛況ぶりを眺めるために外へ出る。そして私は一人の男に殺される。一人の男とは、私である。
研究室では、一人の女がピペットとシャーレとを洗っていた。一人の女とは、私である。私は酵母菌の観察を専門としていた。酵母菌とは、私である。私は担当教官と結婚し、離婚し、結婚する。担当教官とは、私である。子供はできなかった。子供とは、私である。十七年後、私は務めていた会社で重大なミスを犯したために退職し、准教授として大学に招かれる。准教授とは、私である。私は五ヶ月後、研究室に向かう途中で叫び声を聞いて駆けつける。そして私は一人の男に殺される。一人の男とは、私である。
廊下では、一人の男が漫画を読んでいた。一人の男とは、私である。その漫画は十一年に渡る連載を終えたところであった。私は腑に落ちないものを感じながら、漫画を読み終えた。「こいつは何が言いたかったんだ?」こいつとは、私である。私は十七年後、人員整理によって退社を迫られた時に同じ思いに駆られることになる。人員とは、私である。「こいつは何が言いたかったんだ?」こいつとは、私である。私は五ヶ月後、牛刀を振り回して八人を殺傷する。八人とは、私である。偶然だが、その中には私の上司もいた。上司とは、私である。そして私は私に殺される。人々はそのニュースを目にした時、同じ思いに駆られることになる。人々とは、私である。私は布教に成功したのだ。「こいつは何が言いたかったんだ?」こいつとは、私である。よくあることだ。
図書館では、一人の女がノートをとっていた。一人の女とは、私である。私は十七年後、介護士として働いている。介護士とは、私である。私は五ヶ月後、車椅子を押して歩いている。そして私は一人の男に殺される。一人の男とは、私である。こうして私の人生は二つの意味で完全に終わった。第一の意味は、私は死んだということである。よくあることだ。第二の意味は、私は宿命を達成したということである。私の母は、私にずっとこう教え続けてきた。私の母とは、私である。「お前なんか死んじまえ!」お前とは、私である。私の母も、私にずっとこう教えて続けてきた。私の母とは、私である。「お前なんか死んじまえ!」お前とは、私である。エトセトラ、エトセトラ。
階段では、一人の男が携帯電話を見ていた。一人の男とは、私である。私はニュースを見ていた。たったいま一人の男が、牛刀で無差別殺人を働いたというニュースだった。一人の男とは、私である。結局、九人が死ぬことになる。九人とは、私である。後に、私はこの事件を題材として漫画を描くことになる。その漫画は好評を獲得し、十一年に渡って連載を続ける。十七年後、漫画家になっている。漫画家とは、私である。私は幸運にも大ヒットしたデビュー作の連載をやっと終え、すでに構想に入っていた次回作の執筆を開始する。それは私の母の人生を描いたものになるはずだった。私の母とは、私である。私は五ヶ月後、デビュー作の最終巻が書店に並んでいるところを見に行く。そして私は一人の男に殺される。一人の男とは、私である。
私は書いた。私は読んだ。物語は終わった。
しかし言葉は続いている。これは蛇足と呼ばれるものだ。注釈と称しても間違いではあるまい。物語は終わっても、人生は続く。つまりそういうことだ。そして人生の周りでは、また別の物語が動き続けている。これは私の物語と人生とに限った話ではない。よくあることだ。人生は終わっても、物語は続く。つまりそういうことだ。
物語は続く。
人生も続く。
よくあることだ。
さて、私から私へ、たった一言の独り言を残して、物語を完全に終えようと思う。私とは、私である。エトセトラ、エトセトラ。
私は何が言いたかったんだ?