僕は一人の女と再会した。彼女は言った。「まあ! 見違えるようだわ!」実際、僕は見違えていた。とりあえず髪を切ったばかりだったし、なんといっても十年近くが経過していたため、他にも色々と、とにかく、髪を切ったばかりだった。ピンクのシャツを着る勇気はまだない。僕はグリーンのパーカーを羽織っていた。だから、彼女は本当はこう言ったのかもしれない。「まあ! ヒキガエルのようだわ!」しかし、たとえ僕が一匹のヒキガエルに変身していたとしても、彼女は同じことを言っただろう。「まあ! 見違えるようだわ!」なんといっても、十年近くが経過していたのだし、僕と彼女とは別れていたのだから。
目覚めた。いつの間にやら眠っていたらしい。友達はPS3と格闘していた。
どうも腹を壊したらしい。外食をするといつもこうだ。トイレで唸りながら、自分には萌えが分からないなどと悩む。
ひとしきりPS3で遊ぶ。
帰ろうと駐輪場へ行くと、自転車が倒れている。これはパンクだ。空気入れを借りて、とりあえず注入。
深々と更けゆく真夜中、自転車を押して家まで歩く。自転車では近いが、歩くには遠い。歩くには遠いが、歩くしかない。何も考えないようにする。何も考えなければ、大抵のことは容易い。
何にせよ家についた。いつも何も考えていない。だから色んなことができない。
『日本語を反省してみませんか』を読み始める。
加藤登紀子の『赤い靴 すばらしき詩人たち』を聴く。読む。
ヴァージニア・アストレイの『サム・スモール・ホープ』を聴く。読む。
ビッグ・カントリーの『ホワイ・ザ・ロング・フェイス』を聴く。読む。
朝がくる。眠る。
僕と彼女は、二人で夜を楽しんだ。これは比喩表現である。具体的にはこうした。
僕はビルの彼方を指差して、「あれがデネブ、アルタイル、ベガ」と言った。彼女はビルの彼方を眺めて、「暗くてよく分からないわ」と言った。
僕は紐を引っ張り、日を点けた。どうだ明るくなったろう?
明るくなった。カーテン越しにも日光はさして、目が覚めた。一日が始まる。
明る過ぎて見えないものもある。見えなくても、ちゃんとある。
昼がくる。ヨーグルトとミートスパゲティを食べる。
『水戸以外全部沈没』が届いたので読む。スパイシー大作戦の同人誌は単に漫画が描いてあるだけでなく、色々と詰まっていて、本として読んだり触ったりするのが楽しい。
上京して最初に気が付いたことの一つは、一限の教室が大変に納豆臭いことだ。そこで郷に入っては郷に従うべく、スーパーで納豆を買い、生まれて初めて口にした。俺は限界だと思った。
図書館へ行ってCDを借りる。百均で小さな木製のスプーンとフォークとを買う。スーパーで食材を買う。
帰宅すると、注文しておいた本が届く。
警察が来る。振り込み詐欺についての注意を受ける。もちろん、「ひっかからないよう気をつけろ」という意味で。
『日本語を反省してみませんか』を読み進める。
ケイト・ブッシュの『センシュアル・ワールド』を聴く。読む。
『日本語を反省してみませんか』を読み終える。そろそろもっと専門的なものが読みたくなってきた。
夜が来る。パンを食べる。
『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』を読み始める。
オジー・オズボーンの『オズモシス』を聴く。読む。
ドンナ・マッケヴィットの『トランスルーセンス〜デレク・ジャーマンの世界』を聴く。読む。
アリス・コルトレーンの『トランスリニア・ライト』を聴く。読む。
『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』を読み終える。楽しい読み物だった。
WORKING!!』を見る。イエス
「WORKING」が「WARKING」に見えてしかたない。もっと言えば「WAR KING」にも見える。ついでに言えば「あるキング」のことを「或るキング」と「歩きing」の掛詞だと勝手に想像している。こんなことを書いていたら「A Looking」なのかもしれないような気がしてこないでもなくなってきた。いやもしかしたら「あ Looking」なのかもしれない。「あ」というのは日本でよく知られた勇者の名の一つである。
一日が終わる。

まずは昨夜、ベッドに入ってから眠るまでの記録を。
『月光ゲーム』を読み始める。
ケイト・ブッシュの『愛のかたち』を聴く。読む。
ケイト・ブッシュの『レッド・シューズ』を聴く。読む。
オジー・オズボーンの『月に吠える』を聴く。読む。
『月光ゲーム』を読み終える。そこかしこに引っ掛かりどころはあったものの、謎解きの楽しみもきちんとあった。
朝がくる。眠りにつく。
まだ子供だった頃、一人の友人が家に僕を誘った。彼は兄の部屋へと僕を案内した。タバコや酒にまみれた部屋だった。そこにあったデッキで、彼は一本のビデオテープを再生した。それはAVだった。「こうやって子供を作るんだぜ」と彼は言った。彼が言っていることの意味や、彼がどうしてそんなことを言うのか、僕には理解できなかった。もしかしたら、彼は昨日までコウノトリやキャベツ畑の神話を信じていたのかもしれない。「フェラじゃ子供はできないよ」
この後、フェラが何なのか分からない彼に僕がしゃぶって教えてあげると続けると、これはホモコピペになることに気がついた。恐ろしい話である。
恐ろしい話は多い。その多くは、実話である。
目が覚める。昼がくる。
友達とラーメンを食べに行く。
駐輪場では自転車が息を絶やしていた。バルブが閉まっていない。これはミスだ。空気を入れ直し、友達の家へ向かう。
ひとしきりPS3で遊ぶ。
夜がくる。カレーを食べに行く。
ひとしきりPS3で遊ぶ。
一日が終わる。
これは実話である。

「私のことは地球としておこう」
すばらしい星の生き物へ。
このささやかな星の上で、僕が人のためにやれたのは、耳を傾けることぐらいだった。
おはようございます。
起きてすぐ、注文しておいた本が届く。新しい本を開くたび、図書館とは人類が零した溜息の標本であるように思われる。僕は三つ溜息を零した。
昨晩、読みながら眠りについた『七回殺された男』を読み進める。この溜息を零してから、五年の月日が経過していた。よくあることだ。友達が「キングギドラの新譜が出たんだぜ」という言葉を発して、僕に届くまでには八年かかった。「『最終兵器』は最高だな!」よくあることだ。
ケイト・ブッシュの『ドリーミング』を聴く。何をどうしたらこんなものが生まれるのだろう? これは賛辞だ。実際のところ、僕は様々なものの生まれ方をよく知らないので。はじめてクジラを見た時も、同じ言葉を呟いた。何をどうしたらこんなものが生まれるのだろう? 僕は星に対してこう呟きたくなった。「君がためしに作ってみた機械仕掛けの件だけど、なかなかうまくいったよ。いつも魚をありがとう!」
ケイト・ブッシュの『ライオンハート』を聴く。星がこう返すのが聞こえるかのようだ。「クジラは魚ではありません」「今まで魚をありがとう!」
昼がくる。何も食べていないことに気がついたので、ヨーグルトとミートスパゲティを食べる。誰かがドアをノックする。僕はドアを開ける。そこには昼がいる。「どうも、昼です」「どうも、何の御用ですか?」「光熱費を頂きたいのですが」うんぬん。
散髪へ行こうと駐輪場に向かうと、自転車が倒れていた。風で飛ばされたかと思ったが、後輪の空気が抜けている。とりあえず空気を入れてみた。人工呼吸というやつだ。とりあえず空気が入った。立ち上がった。パンクではないらしい。先日、人工呼吸を施した際に、よく閉まっていなかったのだろう。タイヤは細く長い息を吐き出し始めた。
そして僕は自転車に跨った。青年は床屋をめざす。床屋の向こうには友達の家があって、そこには『聖☆おにいさん』がある。イエスブッダが主人公の愉快な漫画だ。講義中に仏教について触れる折、教授が言及するぐらい人気がある。「ブッダというのは、なかなかいい奴ですね」
ブッダというのは、なかなかいい奴だ。二千五百年前には、いい奴がいた。そして、きっと今でも。
二千五百年の間にいなくなった奴もいる。例えばモアがそうだ。この飛ぶことを知らない鳥は、凡そ五百年ほど前に絶滅したと言われている。彼らの足跡を解読すると、こんな言葉になっていたかもしれない。「さようなら、また今度」
そして今、いなくなろうとしている奴もいる。例えばウンピョウがいる。この猫の個体数は今や、核弾頭よりも少ない。しかし、核弾頭よりも個体数が少ない動物は珍しくない。がんばれ!
床屋に着いた。髪を切ってもらった。「短く、短く」と僕は注文をつけたが、あまり短くはならなかった。というか、大変おかしなことになった。よくあることだ。
帰り際、途中にある友達の家に寄ろうかと思ったが、やめにした。アポなしで訪れることはしないようにしている。もし僕がチャイムを鳴らしたとき、自慰に励んでいたら? 僕は自慰ほどの幸福を与えられる自信がない。このことを勃起障害と呼ぶ。
平日の真昼間に家で男一人。自慰でしょう。がんばれ!
それでも人類の個体数は、今や六十五億を越えた。これまでに死んだ個体数よりも多いと言う人もいるし、少ないと言う人もいる。六十五億もいれば、色んな人がいる。核兵器が全力を尽くしたら絶滅の危機に瀕するかもしれないという意見では、概ね一致している。それでも人類は生きていける。強い生き物だ。
人類がこれほどまでに個体数を増やしたのは、イエスのパパがこうしつけたためだと考える人もいる。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」
図書館へ寄ってCDを借りた。あんまり暑いので、アイスを買って食べた。帰宅した。
『水戸以外全部沈没』を買うために再び自転車を駆り、最寄のとらのあなへ向かった。最寄のとらのあなの向こうでは、僕の友達が今日も大学へ通っている。がんばれ!
『水戸以外全部沈没』は絶滅していた。僕は四つ溜息を零した。後から分かったことだが、友達は大学へ行っていなかった。僕も水戸を沈没させてしまった。広告が語りかける。「なぜベストを尽くさないのか」手厳しいことを。
自転車を漕いで帰りながら、僕はそもそも納豆が好きじゃないことに気がついた。水戸のことも別に好きじゃないことに気がついた。何となくゆのっちのことも好きじゃないような気がしてきた。
帰宅した。ヨーグルトを食べた。僕は乳酸菌をえこひいきしている。がんばれ!
「えこひいき」の「えこ」はエコブームとは何ら関係がない。「依怙」と書いて「不公平」という意味がある。勉強になった。学べることは多い。
テレビをつけると『水戸黄門』をやっていた。僕は『水戸黄門』が好きだったことを思い出した。宮子が好きだったことを思い出した。何より氷川へきるの漫画が好きだったことを思い出した。
ぱにぽに』14巻を読む。人類は笑うこともできる。
僕はとらのあなのサイトへ行き、『水戸以外全部沈没』の個体数を一つ減らした。
侵略!イカ娘』5巻と6巻とを読む。どんどん面白くなってきたが、これは耐性というやつだろうか。
PSYREN -サイレン-』11巻を読む。どんどん話が腰を据えてきたが、これは安心していいのだろうか。
それでも町は廻っている』7巻を読む。面白さがすっきりとしているところが好きだ。気持ちがいい。
『七回死んだ男』を読み進める。主人公を応援してしまう。がんばれ!
オジー・オズボーンの『ブラック・レイン』を聴く。読む。
モット・ザ・フープルの『すべての若き野郎ども』を聴く。読む。
ストゥージズの『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ』を聴く。読む。
吉田拓郎の『Long time no see』を聴く。読む。
萱野茂の『音の世界遺産 アイヌのユカラ』を聴く。読む。
『七回死んだ男』を読み終える。久しぶりに読むミステリーだったので、割と本気で挑んだ結果やたらと時間がかかってしまった。すっかり解いた気になっていたけれど完全に手の平の上で、大ネタにすっかり引っかかった。すばらしいパズラー。
夜がきていた。夜とは、空に映ったこの星の影のことである。そこには宇宙があり、他の星が見えることもある。こんな古い歌もある。「きらきら光るお空の星よ、まばたきしてはみんなを見てる」この星は孤独じゃない。
『日本語ウォッチング』を読み始める。
『永久保存盤 軍艦マーチのすべて』を聴く。読む。
『日本語ウォッチング』を読み終える。勉強になった。学べることは多い。
腹が減ったと思ったら、何も食べていない。よくあることだ。後は寝るだけなので、潔く寝る。
僕は眠る。僕は一日の三分の一を寝て過ごす。丸々七年間ほど眠り続けてきた計算になる。三十年ほど眠っていたい。
おやすみなさい。
生憎、その耳は飾り物でした。このことを悲劇と呼ぶ人もいれば、喜劇と呼ぶ人もいました。いずれにせよ、人生は一幕の芝居であるようです。その観客とは、友達の友達の友達なのかと考えていた時期もありましたが、恐らくは、子供たちの子供たちの子供たちなのでしょう。題して、「歴史」。副題、「我々は如何にして心配するのを止めて溜息と笑いの標本を愛するようになったか」。
この星には固有名詞があまりに溢れかえり過ぎている。しかし、そこに僕の名前はない。あまりにありふれているので。水袋とでも呼んでいただければ幸い。
生き物の大半は水である。空と海との間を行ったり来たりし、時々は地上に留まって、溜息をついたり笑ったりする。こんな古い歌もある。「きらきら光るお空の星よ、みんなの歌が届くといいな」歌とは、振動のことである。頭上を飛び交う人工衛星が、雲の振動からこんな言葉を解読するかもしれない。「がんばった」
生きとし生けるものはみんな、がんばった。それぞれに。
「ここを地球と呼んではどうかね?」

もっと言いたいことがあったはずなのに!
そして文系院へ…
4年だっていうのに忙しい。コマ数の半分ぐらいは教職なので、卒業とは関係がないのだけれど。単位も貰えないのに講義に出てレポート書いたり試験受けたりってマゾなの? 死ぬの? そんな風に考えていた時期が俺にもありました。でも去年やってみたら意外と楽しかったので、適当に続けようかと思ったので、教職をとったりしている。教員免許は多分断念する。
何にせよ教師ってこの世で最も俺に向いてない職業だと思う。小学校中学校高校と、全てろくな生徒じゃなかった。授業は聞かないし宿題はやらないし給食は残すし遅刻は繰り返すし。そんな俺でも大学へは行けた。ありがとう先生。
その結果がこれだよ。
卒論があるので、ゼミがある。ゼミがあるので、発表がある。発表をした。自分の分野の先行研究についての発表を。
大学では発表のある講義が幾つかあって、その度に「これでいいのか?」って疑問になる。発表って言っても資料作って配って、後は前に出て喋るだけの簡素なものばかり。それで喋りの部分が問題で、この調子で喋る。普段どおり、だらだら。これでいいのか? 適宜質疑応答はきちんとしてるけど、あの、他の人の発表みたいな、こう、きちっとした、「発表してるぜ!」っていう雰囲気が、まるで醸し出されてない気がする。演じるべきものをちゃんと演じるのは難しい。
「あなたってネット上とリアルとでまるで人が違うわ!」っていう話はよくあるような気がする。ネット上というよりは、文章上の問題なんじゃないかと思わないでもないけれど、そういうことは多かれ少なかれあるらしい。キャラが違うっていうよりは、ネット上って色んな人とコミュニケーションを取るわけだから、言葉遣いはまるで変わるのは当然なわけで。学校でも友達と先生では言葉遣いから何からまるで違うわけだし。話が何だか散漫になってきた。でもこの場合想定されてるのは、特定の誰かでなく公に書く文章の中でのキャラのことか。どうなんだろう。俺は多分、そんなに違わない。実際はもっと根暗で貧弱で無口だけど、そんなには違わない、きっと。でも「意外だわ!」って言われたことはあっても、「同じだわ!」って言われたことはないな。そんなこと言う奴は普通いないか。でも匿名掲示板の投稿を見破られたことはあるな。
つまり先にネットで知り合った人とリアルであったことがないので、分からない。そういうのって夢が溢れる。なみなみ。
演じるのは難しい。
「君が本当はこんな奴だったなんて!」みたいな話もなくはない気がする。現実にあるんだろうか。普段やってない振る舞いをしたからって、即座にそっちが本当になるってのもよく分からない理屈ではある。例えば俺が突然「幼女に百万匹のヒキガエルを食わせてその吐瀉物を飲み干したい!」って言い出しても、「君が本当は幼女に百万匹のヒキガエルを食わせてその吐瀉物を飲み干したい奴だったなんて!」とはならないと思う。なるのかな。なっても構わないけど。何にせよ、もうちょっとありそうなことじゃないと、こんな話にはならないだろう。例えば俺が突然「ドーナッツを犯してやったことがあるから童貞じゃない」なんて言い出したら、「君が本当はドーナッツを犯してやったことがあるから童貞じゃない奴だったなんて!」とはなるのだろうか。なっても構わないけど、ならないと思いたい。というよりは「実はこうなんじゃないか?」みたいな疑念にいくらか適合したものじゃないと、こんな話にはならないんだろう。
疑念は人の目を曇らせる。でも柳の下には幽霊がいてもいいと思う。そういうのって夢が溢れる。どばどば。
演じるのは難しい。
まほろさん好きじゃあああ!」みたいな話を中学二年生の俺は窓から叫んでいたような気がする。中学二年生の俺はなかなか活発だったようで、この件か、同時期に書いていたパロディ小説の件か、どちらかが俺のイメージらしい。同窓会調べ。
俺について何らかのイメージを持っている人はとても少ない。とてもとても。
演じるのは難しい。つくづく。
今年はまめに日記を書いていきたいな。日記以外のわけのわからないものを書くスペースが欲しいな。
それと、もうちょっとこう、やわい感じに書いていきたい。アホっぽい感じで。内容は十二分にアホアホで困ってるんだけど。

私から私へ。
これは私の物語だ。私が書き、私が読む。そういう物語だ。小説ならば私小説に当たるだろう。伝記ならば自伝に当たるだろう。確かなのは、単なる独り言に過ぎないという事実だけだ。だが、単なる独り言でなかった物語がかつて一つとしてあっただろうか? 私は知らない。よくあることだ。
物語はいつだって単なる独り言だ。それを誰かがふと耳にし、また新しい独り言を生み出す。それを別の誰かがふと耳にし、更に新しい独り言を生み出す。エトセトラ、エトセトラ。
私は書く。私は読む。物語が始まる。
トイレでは、一人の女が泣いていた。一人の女とは、私である。私はとめどなく溢れる涙をこらえようともしていなかった。涙とは、私である。私は夫から離婚を迫られたのだった。夫とは、私である。十七年後、私は大学職員として定年を迎える。大学職員とは、私である。私は一人息子を育て上げていた。一人息子とは、私である。私と私とはステーキを食べに行こうと約束をする。ステーキとは、私である。五ヶ月後、私と私とは誕生祝いと退職祝いを兼ねて私を食べに出かける。そして私と私とは一人の男に殺される。一人の男とは、私である。
食堂では、一人の男が食事を摂っていた。一人の男とは、私である。私は刺身を頬張っていた。刺身とは、私である。私は教授で、次の講義に備えて腹ごしらえをしていた。教授とは、私である。私は酵母菌の観察を専門としていた。酵母菌とは、私である。私は妻に離婚を告げたところだった。妻とは、私である。私は院生と不倫をしていた。院生とは、私である。後に、私と私とは結婚し、離婚し、再び結婚する。子供はできなかった。子供とは、私である。十七年後、私は名誉教授になっている。名誉教授とは、私である。五ヶ月後、私は私と私の研究をするべく大学へ向かう。そして私は一人の男に殺される。一人の男とは、私である。
トラックでは、一人の女が眠っていた。一人の女とは、私である。私は魚を搬入したところだった。魚とは、私である。私はステーキも搬入していた。ステーキとは、私である。エトセトラ、エトセトラ。十七年後、私は事故で両足を失っており、車椅子に乗っている。両足とは、私である。私は酒に酔って運転していたところハンドルを切りすぎて横転し、私を失ったのだった。酒とは、私である。私は酵母菌によって作られる。酵母菌とは、私である。五ヶ月後、私は楽しみにしていた漫画の最終巻を買いに行く。そして私は一人の男に殺される。一人の男とは、私である。
調理場では、一人の男が料理を作っていた。一人の男とは、私である。私は魚を捌き続けていた。魚とは、私である。私は私の頭を切り落としたのだった。頭とは、私である。私は死んだ。よくあることだ。私は刺身となって、出されたところだった。刺身とは、私である。十七年後、私はステーキ店をオープンする。ステーキとは、私である。滑り出しは上々、店は繁盛し、大勢の客で賑わった。大勢の客とは、私である。五ヶ月後、私は店の盛況ぶりを眺めるために外へ出る。そして私は一人の男に殺される。一人の男とは、私である。
研究室では、一人の女がピペットとシャーレとを洗っていた。一人の女とは、私である。私は酵母菌の観察を専門としていた。酵母菌とは、私である。私は担当教官と結婚し、離婚し、結婚する。担当教官とは、私である。子供はできなかった。子供とは、私である。十七年後、私は務めていた会社で重大なミスを犯したために退職し、准教授として大学に招かれる。准教授とは、私である。私は五ヶ月後、研究室に向かう途中で叫び声を聞いて駆けつける。そして私は一人の男に殺される。一人の男とは、私である。
廊下では、一人の男が漫画を読んでいた。一人の男とは、私である。その漫画は十一年に渡る連載を終えたところであった。私は腑に落ちないものを感じながら、漫画を読み終えた。「こいつは何が言いたかったんだ?」こいつとは、私である。私は十七年後、人員整理によって退社を迫られた時に同じ思いに駆られることになる。人員とは、私である。「こいつは何が言いたかったんだ?」こいつとは、私である。私は五ヶ月後、牛刀を振り回して八人を殺傷する。八人とは、私である。偶然だが、その中には私の上司もいた。上司とは、私である。そして私は私に殺される。人々はそのニュースを目にした時、同じ思いに駆られることになる。人々とは、私である。私は布教に成功したのだ。「こいつは何が言いたかったんだ?」こいつとは、私である。よくあることだ。
図書館では、一人の女がノートをとっていた。一人の女とは、私である。私は十七年後、介護士として働いている。介護士とは、私である。私は五ヶ月後、車椅子を押して歩いている。そして私は一人の男に殺される。一人の男とは、私である。こうして私の人生は二つの意味で完全に終わった。第一の意味は、私は死んだということである。よくあることだ。第二の意味は、私は宿命を達成したということである。私の母は、私にずっとこう教え続けてきた。私の母とは、私である。「お前なんか死んじまえ!」お前とは、私である。私の母も、私にずっとこう教えて続けてきた。私の母とは、私である。「お前なんか死んじまえ!」お前とは、私である。エトセトラ、エトセトラ。
階段では、一人の男が携帯電話を見ていた。一人の男とは、私である。私はニュースを見ていた。たったいま一人の男が、牛刀で無差別殺人を働いたというニュースだった。一人の男とは、私である。結局、九人が死ぬことになる。九人とは、私である。後に、私はこの事件を題材として漫画を描くことになる。その漫画は好評を獲得し、十一年に渡って連載を続ける。十七年後、漫画家になっている。漫画家とは、私である。私は幸運にも大ヒットしたデビュー作の連載をやっと終え、すでに構想に入っていた次回作の執筆を開始する。それは私の母の人生を描いたものになるはずだった。私の母とは、私である。私は五ヶ月後、デビュー作の最終巻が書店に並んでいるところを見に行く。そして私は一人の男に殺される。一人の男とは、私である。
私は書いた。私は読んだ。物語は終わった。
しかし言葉は続いている。これは蛇足と呼ばれるものだ。注釈と称しても間違いではあるまい。物語は終わっても、人生は続く。つまりそういうことだ。そして人生の周りでは、また別の物語が動き続けている。これは私の物語と人生とに限った話ではない。よくあることだ。人生は終わっても、物語は続く。つまりそういうことだ。
物語は続く。
人生も続く。
よくあることだ。
さて、私から私へ、たった一言の独り言を残して、物語を完全に終えようと思う。私とは、私である。エトセトラ、エトセトラ。
私は何が言いたかったんだ?

毎回レビューシートを提出する講義があのですが、特に書くことが見つからず困ります。このレビューシートというやつには八行分の空欄があり、何らかの反応をしなければなりません。質問だとか、感想だとか、色々。私はいつもいつも二行ほどしか書けないでいます。見たところ、他の人達は最低でも六行、細やかな字で八行いっぱいを満たす人も少なくありません。また、二十七行あるものもあります。私はせいぜい六行が限界ですが、十五行を下る人は他に見つかりませんし、やはり二十七行全て使う人もざらにいます。あの人達ならきっと、道端に転がる空き缶からも十四行詩を綴ることができるでしょう。
私は物を書くのが苦手です。私にとって明らかなことは、他の人にとっても明らかだと思うので、敢えて書く必要性を感じません。かといって、私にだけ明らかな秘密を見つけられるわけでもありません。それで、書けることが少ないのです。どうも、世の中には気に入った作品や、あるいは気に入らなかった作品について、何らかのコメントを発しなければ気が済まない人々がいるようです。私にも、そういうところがあります。しかし、ここでもさして書くほどのことが見つけられず、お決まりの言葉に終始しています。その言葉とはこうです。
「とても、良かった」
周りには、膨大なコメントを書くことに長けた人も見受けられます。大抵はスポンジのように膨らんでいて、私にはこんな風に見えます。
「承知の通り、兵十に野菜を届けていたのはごんです」
まずこう始まります。あれこれあって、こう続きます。
「兵十が射殺したのは実はごんだったんだ!」
本文にそう書いてあります。読めば誰にでも分かることです。
つまり、誰にでも分かることを書くのが大切なのでしょう。しかし私にでも分かることは既に多くの人々が、多大な労力を費やして書いてくれているので、私には書くべきことがどうも見つかりません。そこで、誰にとっても明らかだとは思えない、自分にさえよく分からない、そういうことを書くことにしています。こんな感じです。
「射殺したのがごんじゃなかったら、兵十は悲しくなかったっていうのか?」
昔、友人は私の書いたものにこんなコメントを付けました。
「お前がこんなものを書くなんて意外だったよ」
これは彼が私のことをよく知らないという意味です。私も彼のことをよくは知りませんし、誰のこともよく知らないのです、実を言うと。コペルニクスや、アインシュタインのこと以上に、知り合いのことをよく知らないのです。そんな風にして物事に疎い人間の呻きには、いつだって同じ響きを聞き取れます。こんな感じです。
「戯言は力なり」
私は到るところでこの響きに出会います。到るところで。
とはいえ、私が足を運ばないところではもっと有益な言葉がやりとりされているようです。それは一般に書類と呼ばれます。書類とは、恐らくこんな感じです。
Aがバナナを食べたいと思う。
Aは「バナナ」と一筆したためる。
AはBに「バナナ」を渡す。
Bは「バナナ」にマルをつけて、Cに渡す。
Cは「バナナ」にマルをつけて、Dに渡す。
こんなやりとりを何度か繰り返す。
やがてAにはバナナか、バツのついた「バナナ」が渡される。
これぞ人と人とのコミュニケーション。
他には、小説と呼ばれる言葉の束もあります。これは私にとっても親しみ深いものですが、書類ほどは書く人がいません。多分、あまり有益ではないのでしょう。
特に、書類には小説との決定的な違いが一つだけあります。
鼻をかむとインクが滲むこと。これは違いではありません。
鼻をかむのに使うと読みづらいこと。これも違いではありません。
鼻をかむにはいささかもったいないこと。これが違いです。
何にせよ、文字や図版なんかが印刷された紙は、鼻をかんだり尻を拭くのにはさして向いていません。読んで燃やすか、読まずに燃やすかに限ります。私はまだ一つとして小説を燃やせずにいます。お気に入りの小説を開くたび、世の中にこれほど戯言に尽力する人々がいるのだと、胸が震えるからです。
意味のない言葉の束は何も小説に限った話ではありません。私は普段交わす会話でも、言葉自体にはさして意味を感じません。会話を一つの行為とみなし、いかに振舞うかを気にした方が幾らかマシに思えます。剣はペンよりも強し。
何であれ、意味のある言葉が私の口から溢れるとはとても思えません。大抵のことは、偉大なる先人たちによって既に語り尽くされていますから。
私などは生まれてこのかた、意味のある言葉をほんの三つしか喋っていないような気がします。
まず、「こんにちは」と「さようなら」。ハワイではこの二つが一言で済みます。
「アロハ」
それに「ありがとう」。あまりに上等過ぎてなかなか口にできませんが、心の中にはいつもある言葉です。時々は、勇気を出して言うこともできます。
そして、今がその時なのでしょう。
ありがとう。
私の戯言に付き合ってくれて。
あなたの口元か、せめて耳元に、意味ある言葉のあらんことを。
追伸。
もしも見つけられない時は、ぜひとも枕元に『ごん狐』を。とても、良かった。

愛媛へ帰って、島根へ行き、愛媛から帰る。
帰る前に同窓会的な何かへ飛び行って隅の方で小さくなっていた。
それで思い出したことを忘れる前に書いておく。
中二の時にクラスの誰かが家庭の事情で帰りづらくなったとかで、二人して放課後デパートへ行って夜になるまで飯を食ったり本を読んだりゲームをしたりしてた。確か、ごたごたが片付くまで二月ほどそんな調子だった。ただ、それが誰だったのか思い出せない。向こうも俺のことなんて忘れているといい。
誰も彼ももっとまともな相手を探した方がいい。俺みたいなので暇つぶしするのは末期的な手段だ。